創業者鈴木宇兵衛は徳川家御用達の酒問屋であったが、1868年大政奉還により後立てを失い廃業。当時20歳代だった宇兵衛は、一大決心しアメリカ大陸へと渡った。
当時の日本の状況を考えれば、冒険に匹敵するような大変な旅であったろう。
渡米後はサクラメントでホテル経営などを経由し、ニューハンプシャー州プリモスに本社のあるD&M(ドレイパー・アンド・メイナードカンパニー)との代理店契約を獲得するに至る。
創業者長鈴木宇兵衛が米国より帰朝。
D&M(ドレイパー・ アンド・メイナードカンパニー)の日本総代理店として、総合スポーツ用品及び婦人服飾用品の販売を生業として、東京三田にデイエム商会を創立。
羽田野庄二入社
国産化への開発に努める。
1925年 東京市芝区にて
ゴム入織物の製織に成功。サポーター、コルセット、ブラジャー類、専業化に進む。
羽田野庄二、二代目社長を継ぐ。
本所緑町へ本社移転。
1938年(昭和13年)新聞広告
※大阪・エビス堂様より寄贈
羽田野美代、前社長羽田野庄二病没に伴いその遺業を継ぐ。
終戦。3月10日の東京大空襲で、本所緑町の本社工場の全てが焼失。
株式会社デイエム商会を設立。
戦時中の疎開先であった世田谷経堂での営業を青山に移す。
サポーターのセット販売時、プレミアムとして全国のスポーツ店に配布した。 1960年代 D&Mサポーター人形
※巣鴨・コバヤシスポーツ様より寄贈
青山本社ビル落成。
当時、スキーウェアが変わりデモパンが主流になった頃、 このスキーサスペンダーが飛ぶように売れた。
1970年代ブームだった、ボーリング。D&Mのボーリング用プロテクターはボーラーの必需品となった。
1970年代水泳用サポーターパッケージ
1970年 カタログ
日本橋馬喰町へ本社ビル移転。
草加商品管理センターの設置。
羽田野美代会長になり、羽田野隆司が四代目社長を継ぐ。
羽田野隆司会長になり、森忠治が五代目社長を継ぐ。草加発送センターを設置。
羽田野洋、六代目社長に就任。
東京都台東区に本社移転。
商品センター・発送センターの統合「草加物流センター」開設。
「株式会社デイエム商会」から「株式会社D&M(ディーエム)」に社名変更。
RIZAPグループ株式会社へグループ入り。
村瀬伸行、八代目社長に就任。
東京都中野区に本社移転。
「株式会社D&M(ディーアンドエム)」に変更
東京都新宿区に本社移転。
上杉隼土、九代目社長に就任。
鈴木宇兵衛が1902年にエージェント契約を交わしたアメリカのD&Mとは、どんな会社だったのか。
ニューハンプシャー州プリモスで事業を興したD&Mは、ジェイソン・フレッチャ・ドレイパーと、義兄のJ.メイナードが、プリモス村の南に手袋工場を開設していたJ.F.ドレイパー・アンド・カンパニーを引き継ぐ形で始まった。すぐにドレイパーとメイナードは、新しいタイプの野球グローブを商品開発。ほどなく市場が拡大し、北米でも有数のスポーツ用品メーカーに数えられるようになっていった。
その後はメジャーリーグの発展に呼応する形で次々に新商品の製造・販売を行い、プリモスの町の財政支援などを受けながら、工場を新設・拡張するなど順風な会社運営が続いた。
D&M社商品は高品質なスポーツ用品の最高峰として世界的に浸透していったのである。
しかし、ジェイソン・ドレイパーが1913年に死去、1937年にはメイナードが死去すると、その2ヶ月後には会社は閉鎖され、商標名と特許は売却され、その歴史に幕を下ろした
D&Mのスポーツ用品は、品質が良いことで数多くのスポーツ選手から愛用されたが、特にメジャーリーガーの愛用者が多く、中でもベーブルースとの結びつきには有名なエピソードがいくつかある。
1916年、ワールドシリーズに優勝したボストンレッドソックスチームがプリモスのD&M社の工場にグローブとミットの作り方を見学に訪れた際、ベーブルースが縫製台に向かって座り、野球ボールの縫製を行うシーンを演出、これが一枚の写真に収められ今も残っている。
また当時、D&Mの正式なスポーツ選手CMキャラクター契約を結んだ彼は、D&Mを評してThe“Lucky
Dog”Kind「いい(運)つきをくれる品」という標語を与え、後にこれは版権が取られ、当時D&Mのマスコットであったメイナードの鳥猟犬ニックのイラストレーションと共に登録商標となり、皆に愛された。
1937年にはメイナードが死去すると、その2ヶ月後には会社は閉鎖され、商標名と特許は売却され、その歴史に幕を下ろした。
アメリカのD&Mのキャラクター・ロゴマーク
プリモスのD&Mの工場で野球のボールを縫っているベーブルース。
右後ろが社長のジョン・メイナード